雑学のススメ No.26(06.12/07.1)

「昆布が歴史を変えた(昆布の話―2)」
〜明治維新は昆布が主役?〜
 総務省統計局の「平成17年度家計調査」による県庁所在地での「一世帯あたり昆布の年間支出金額」の第1位は、全国平均(1,296円)を大幅に上回る4,428円の「富山市」です。また、支出金額が多いベスト11の県庁所在地は、昆布の生産高の90%を占める「北海道」ではなく、北海道から遠く離れた北陸・九州・関西地方が多いことに気がつきます。

※ 一世帯あたり昆布の年間支出金額 ベスト11 ※

 江戸時代、北海道から日本海沿岸を経由し本州の最西端の下関を回り瀬戸内海を経て大阪に至る「北前船」の航路(寄港地)が大きく影響しているものと思われます。
 「北前船」は米・莚・醤油等を北海道に運び、帰りに昆布・鰊の〆粕(魚肥)を本州にもたらしました。商品を運ぶだけでなく、出航地で仕入れた商品を、寄港地で売りさらに別の商品を売り捌く為、北前船の行く先々の港・港で積荷の昆布を降ろし、そこで独自の昆布の食文化が発達し、現在まで殆ど変化することなく引き継がれているのです。

 食文化といえば、数年前まで昆布の消費量日本一といわれた「沖縄」を忘れてはなりません。「昆布」は沖縄の家庭料理に欠かせない食材です。高価な昆布が北海道から遥かに遠く離れた沖縄の庶民が、何故安価で大量に入手できたのでしょう。
 1820年頃、「北前船」の航路に目を付けた「藩」がありました。莫大な借金に苦しむ「薩摩藩」です。薩摩の砂糖を大阪や下関で昆布に変え、その昆布を沖縄(当時の琉球国)を通じて中国(当時の清国)に運ぶ貿易が盛んに行われています。その結果明治維新までの50年間に借金を返済し、逆に蓄財するまでに回復しています。

 この経済戦略は「薩摩藩」だけの知恵ではありませんでした。地場産業の「売薬」を全国展開して「藩」の財政を支えようとした「富山藩」が仕掛け人なのです。
 江戸時代の鎖国政策下でも唯一開港されていた「長崎」から輸入される中国からの「唐薬種」は幕府の統制下にあり、その種類や量が限られていました。また長崎から大阪の道修町(どしょうまち)の薬種問屋を経て富山にもたらせる薬種は大変高価でした。薩摩・琉球経由(密貿易)で輸入される薬種を豊富に且つ安価で入手する方法は、富山の売薬にとって地場の薬産業を支えるための必要不可欠な手段だったのです。

 先ず「富山藩」は薬を売る為に「松前」の昆布を薩摩藩主に献上し、中国との貿易ルートを持っている薩摩藩を動かしました。中国の高価な薬種を手に入れるため、昆布を富山で雇い入れた船で北海道から薩摩・琉球を経由して中国へ運び、中国からは薬の原料を仕入れ富山で薬にして、全国に売り歩いたのです。現在に通じる壮大な流通戦略と言えます。(中国では食料ではなく「漢方薬」の原料として使われている。)
 その結果、中継基地となった沖縄に大量の昆布が運ばれることになり、庶民にも安価に手に入り、郷土の食文化に深く入り込んでいったということです。

 話は幕末の慶応2年(1866年)1月21日に遡ります。長州藩を京都から追放(蛤御門の変で)し、幕府と共に長州征伐に加わった薩摩藩が、感情的に敵対していた長州藩と手を結びました。倒幕運動に協力する「薩長同盟」が成立したのです。坂本龍馬や中岡慎太郎の力によるものと伝えられていますが、明治維新の「謎」の一つです。
 長州藩の下関は北前船で運ばれた「昆布」の中継基地として、西の浪速と言われるほど繁栄しており、薩摩藩と長州藩とは昆布という共通の産物で儲けた「仲間」という素地があったものと思われます。
 さらに、慶応4年1月(1868年)旧幕府軍が薩摩藩を中心とする新政府軍に敗れるという歴史のターニングポイントになった「鳥羽・伏見の戦い」がありました。
新政府軍に勝利をもたらしたのは、旧幕府軍のものとは段違いに性能が異なる「新式銃」だと言われています。50年前莫大な借金を抱えていた薩摩藩が如何なる手段を用いて他国に先駆けて何千という「新式の鉄砲」を調達したのか、これも明治維新の謎の一つです。
 中国との「昆布」貿易で巨万の富を得た「薩摩藩」、それを同盟という形で援助した「昆布」の仲介商社の「長州藩」、さらに調達資金を援助した「富山藩」の売薬商(最大の功労者?)によって、幕府を倒す程の資金が集まったからこそ、明治維新が訪れたことになります。その資金調達のために重要な役割を果たし、歴史を動かした「昆布」は陰の主役といえると思います。現在でも富山市が昆布の消費量が全国一である事が証明しています。

参考文献:「昆布の道」 北海道大学名誉教授 大石圭一著  第一書房発行